NEDの現場から
考えるノート

魅力度最下位のニュースに見る「チャンス」。お裾分けから始まるこれからの観光

掲載日: 2025年12月12日

著者:時田 隆佑(株式会社トキタ企画 代表取締役社長)

「魅力度最下位」という最強の武器

毎年秋、空が高く澄み渡り、肌寒さを感じ始める季節になると、決まってあるニュースが話題になる。「都道府県魅力度ランキング」だ。

北関東の県たちが最下位を争い、「今年はワーストを免れた」と一喜一憂する、あの恒例行事である。今年は、埼玉県が初めて最下位になったという。
だが、地元の人たちは「ああ、またか」と苦笑いする程度で、そこに悲壮感はない。むしろ、清々しささえ漂っているように見える。

かつて観光協会の職員だった立場からいえば、「情報発信が足りていない!」というお叱りは甘んじて受け入れるほかない。しかし、個人的にはこの「最下位」という結果を、ある種の希望として観察している。

ランキングの指標となるのは、分かりやすい観光名所や、特産品の知名度といった「他人の評価」の総和だ。
だが、実際に暮らしている人々の実感は少し違う。
「何もない」ということは、裏を返せば、これから何でも描ける「余白」があるということだ。
完成された観光地ではないからこそ、消費されることのない、手垢のついていない日常が残っている。

激変した数十年を生きる、私たちの視点

私たちが「観光」や「エンターテインメント」として消費してきたものの歴史を、少し引いた視点で整理してみる。

時計の針を少し戻そう。
かつて、マスメディアが全盛だった昭和の終わりから平成の初め。
私たちはテレビや雑誌が映し出す「巨大な物語」を消費していた。

月曜の夜9時になれば、トレンディドラマで描かれる都会的な恋に憧れ、冬になれば映画の影響でこぞってゲレンデへ繰り出した。
ファッション誌を読んでは、代官山やキャットストリートでの「消費」に憧れ、ワールドカップのような国家的イベントは、疑う余地のない「正義」であり「熱狂」の対象だった。

そこには明確な「正解」があり、私たちはその煌びやかなステージを観客席から眺め、少しでも近づこうと背伸びをしていた時代だ。

しかし、そこからわずか数十年。
価値観の尺度は驚くべきスピードで反転した。

スマートフォンひとつで、誰もが発信者になり、誰もが主役になれる。
YouTubeやTikTokを開けば、そこにはプロが作った壮大な脚本ではなく、隣の誰かのリアルな日常が溢れている。
興味関心は細分化され、深掘りされ、同じ趣味を持つ人たちが瞬時につながる。
もはや、マスメディアが用意した「万人向けの憧れ」をなぞる必要はない。

幸いなことに、私はこの激動のグラデーションを肌で感じてきた世代だ。

「遠くの憧れ」に熱狂したアナログの記憶と、「手のひらの共感」でつながるデジタルの現実。
その両方を知っているからこそ、今起きている変化が単なる流行ではなく、本質的な「回帰」であることに気づける。
多くの人が集まる場所に疲れ、オーバーツーリズムという言葉が生まれる中で、視線が静かに「日常」へと戻っていくのは必然なのだ。

「習慣」こそが、最強の観光資源になる

この時代の変化の最先端で、私は「観光」に当事者として向き合う機会を得た。
かつて在籍した埼玉県北本市の観光協会では、『暮らしと場の習慣を観光に』というミッションを掲げた。

従来の観光協会といえば、名所旧跡を宣伝し、イベントで集客を図るのが常だった。
しかし、北本は違った。
地域の人々が日々繰り返している「習慣」や、その場所で醸成されてきた「暮らしの風景」こそが、外から来る人にとっても価値ある体験になると定義したのだ。

トレンディドラマのような派手な演出はいらない。
定期的に開催されるマーケットで、顔なじみの店主と言葉を交わすこと。
手入れされた雑木林を散歩し、季節の変化を肌で感じること。
これらは、そこで暮らす人にとっては当たり前のルーティンに過ぎない。
しかし、慌ただしい都市生活を送る現代人にとっては、その「丁寧な当たり前」に触れることこそが、何よりの贅沢になる。

非日常の刺激ではなく、日常の質の高さを見せること。
「見せる」ために作ったハリボテではなく、そこにある「習慣」に、外の人が少しだけお邪魔する。
このスタンスこそが、昭和的な価値観を脱した先にある、埼玉のような「余白」のある地域の勝ち筋なのだと思う。

自分の物語をお裾分けする

その後、席を移した熊谷市観光協会で提案した『お裾分け旅 おとなり』というサービスも、この思想と地続きにある。
これは、埼玉県熊谷市の体験を集めたカタログギフトである。
しかし、単なるモノやサービスの詰め合わせではない。
地元の人が「これ、いいよ」と感じている、日常のささやかな時間を、友人にお裾分けするためのツールだ。

古民家で静かにコーヒーを飲む時間。
農家さんと一緒に土に触れる時間。
路地裏の小さな商店で、店主のこだわりを聞く時間。
そこには、かつて私たちが追い求めたような劇的なアトラクションはない。
あるのは、埼玉という余白だらけの土地に流れる、ゆっくりとした時間と、そこで営まれる人々の「習慣」だけだ。

カタログを受け取った人は、その「余白」に身を置くことで、他人の物語ではなく、自分だけの物語を紡ぎ始める。
観光とは本来、見るものではなく、その土地の空気に混ざり合う行為だったはずだ。
モノを贈るのではなく、体験への入り口を贈る。
それは、関係性を消費するのではなく、関係性を耕す行為に近い。

暮らしのとなりにある感動

「暮らしのとなりに感動を」
これは、熊谷市観光協会で掲げたミッションだ。

魅力度ランキングがどうであれ、私たちの暮らしは続く。
遠くの絶景を探すのもいいが、足元にある「なんでもない日常」を面白がれる視点を持つことの方が、これからの時代を生きる上で遥かに豊かだ。

埼玉には余白がある。
そして、その余白を彩る豊かな「暮らしの習慣」がある。
それは未完成ということではなく、受け入れる器が大きいということ。
昭和から令和へ、時代の変化を生き抜いてきた私たちなら、その価値がわかるはずだ。

次の休日は、ガイドブックを持たずに、ふらりと「おとなり」へ出かけてみるのも悪くない。そこにはきっと、あなただけの物語が待っている。

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