NEDの現場から
考えるノート
著者:時田 隆佑(株式会社トキタ企画 代表取締役社長)
前に、部分最適が効きすぎて仕組みの「外」が消えかけている、という話を書いた。今日は、その「外」がどこにあるのか、という話。
外側は、いつも遠くにある。いま手を動かしている線を、まっすぐ伸ばした先のどこか。一年後、三年後、十年後。極端な話、その先に世界がみえているか、ということだ。
別に世界を変えなくていい。ただ、線の先がみえていないと、目の前の作業はやがて作業でしかなくなる。
この感覚を、ここでは「射程」と呼んでおく。仕事のスケールがどこまで届いているか、という意味で。
間違えやすいのは、射程を「ある/ない」の話だと思ってしまうことだ。そうじゃない。射程は、どんな仕事にも必ずある。米を売る仕事にも、本を売る仕事にも、書類を整理する仕事にも、ある。違うのは、その長さと、それを意識できているかどうか、だけだ。
以前、ナガオカケンメイさんがD&DEPARTMENTで商品を選ぶときの段階の話をしていて、なるほどと思った。作り手のためになる、家業のためになる、産地のためになる、その県のためになる、日本のためになる、世界のためになる、地球のためになる、と──。
ある作家を紹介するとき、その人ひとりだけが有名になっても意味がない、という文脈で出てきた話だった。これがそのまま射程の構造に重なって聞こえる。同じ商品でも、どこまで届いているかが違うのだ。
これは、難しいことじゃない。要するに妄想すればいい。
たとえば、米屋の仕事を考えてみる。米がある。農家がいる。産地がある。気候がある。食文化がある。地球がある。ここまで連れていってみると、一袋の米が違って見えるような気がする。逆に「今月いくら売れるか」で止めれば、米は米でしかない。
本屋でもいい。本がある。書き手がいる。読み手がいる。知識がある。文化がある。時代がある。
書類を整理する仕事でも、同じだ。書類がある。誰かの判断がある。組織の記憶がある。やがて誰も覚えていない決定の痕跡がある。歴史になる。
特別な発想力はいらない。目の前のものを少しだけ遠くまで連れていって、その途中の景色を想像してみる。これを妄想と呼んでもいいし、別の呼び方でもいい。
歴史を調べるのが、やり方のひとつだ。米にも本にも書類にも、それぞれの歴史がある。どこから来て、誰の手を渡って、いまここにあるのか。歴史を辿ると、自分の仕事の線が、過去のほうにも未来のほうにも伸びていく感覚がある。目の前のモノが、急に時間を持ち始める。
自分でこれを実感したのは、地元の花火大会の担当になったときのことだ。熊谷の花火大会は歴史が長い。戦前から打ち上げ自体はあって、戦後復興を機に本格化した。
それまで花火大会という行事にあまり良い印象を持っていなかった。人が集まりすぎる場所の、あの独特の空気への苦手意識。そして、そこに動く大きな金額への、これも個人的な違和感。
ところが、その花火大会がコロナ禍で止まった。中止が決まったとき、長く続いてきた線が急に目の前に現れて、顔も見たことのないひいじいさんか、ひいひいじいさんのことを、なんとなく想像した。
それで、一箇所に集まらない花火大会を企画した。市内の複数箇所から花火を上げて、家の近くから見てもらう形にした。自分が担当した打ち上げ現場で、夜空に花火が開いた瞬間の感覚は、いまでもよく覚えている。その時間を共有しているはずの市民と、百年の歴史が、同時に繋がったような感覚だった。
翌年も例年の形には戻らなかったので、前年の五箇所を十箇所に増やした。調整は大変だったけれど、「この記憶が先々に残る」ということがリアルに思えたのは大きくて、やっていて楽しかった。
ただ、妄想がなぜか途中で止まってしまうことがあって、その理由はたいてい、言葉だ。
その仕事を「米を売る仕事」と呼ぶのか、「食卓に関わる仕事」と呼ぶのか、「土地と人をつなぐ仕事」と呼ぶのかで、その先に届く範囲が変わってしまう。言葉が先に立って、射程の入口を決めてしまう。
やっかいなのは、その言葉をいつも自分で選べるわけじゃない、ということだ。客から浴びせられる言葉、上司からの言葉、業界の常識としての言葉。カスハラのような強い言葉は、本人がどれだけ妄想の構えを持っていても、自分が伸ばそうとしている線の途中に、無数の壁を作り出す。妄想ができないのは、たぶんその人が弱いからではなく、外から降ってくる言葉が強すぎるからだ。
僕自身もそうだ。外から強い言葉が飛んでくる日は、自分の射程がきゅっと縮こまる。七段階どころか、一段目までしか届かない日もある。これはもう、どうしようもない。
そういう日はとりあえず、自分が自分に向ける言葉くらいは、少しだけ広いものを選んでおくことにしている。それで何かが変わるわけでもないけれど、明日、戻ってくる場所として。
長い射程を意識しながら働いていると、目の前のしんどさが、少しだけ別の見え方をする日がある。なんでも面白がれる、というわけじゃない。面白がれない日のほうが、たぶん多い。
それでも、楽しむために遠くを見るのか、遠くを見るから楽しめるのか、順番はどっちでもいい。たぶん同じことだ。
仕組みの精度を上げることに疲れたら、いちど自分の仕事の名前を、もう少しだけ広い言葉に置き換えてみる。景色が変わる保証はないけれど、置き換えようとしたその時間の分だけは、自分の射程を確かめたことになる。
なければ、つくればいい。というのは、面白がるということの、たぶん入口の話だ。
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