NEDの現場から
考えるノート

「言語化オジサン」になる前に。「定義」するのをやめて、「意図」を示そう。

掲載日: 2026年1月3日

著者:時田 隆佑(株式会社トキタ企画 代表取締役社長)

「言語化オジサン」になっていないか

書店に行けば「言語化力」を説くビジネス書が平積みされ、SNSでは「解像度を上げろ」という言葉が飛び交う。
世の中は空前の「言語化ブーム」だ。
モヤモヤした思考を整理し、論理的に説明できることが「優秀さ」の証明であるかのように語られる。

かく言う私も、気づけば会議や打合せの場で「それ、もうちょっと言語化してみてよ」なんて口走っていることがある。
「言語化オジサン」化している瞬間だ。

確かに、言葉はビジネスにおいて強力なツールだ。
言葉にすることで思考はクリアになり、チームの認識が揃い、プロジェクトは前に進む。

けれど、すべてを言葉に置き換えようとするその圧力に、ふと居心地の悪さを感じることがある。

「言葉にできないこと」は、本当にただの「思考不足」なのだろうか。

私たちは言葉の効能を信じすぎているのかもしれない。
その功罪について、少し立ち止まって考えてみたい。

哲学者が示した「語り得ぬもの」への畏敬

20世紀を代表する哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、著書『論理哲学論考』の中で、世界を「語り得るもの」と「語り得ぬもの」に区別した。

彼によれば、科学的な事実や事象の描写は「語り得るもの」だ。
一方で、倫理や価値、芸術的な美しさ、人生の意味といった領域は「語り得ぬもの」であり、言葉で説明するのではなく、行為や生き方を通じて「示すもの」だとした。

そして、あの有名な一節を残している。

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」

これは「わからないことは黙っていろ」という冷たい命令ではない。
言葉という不完全なツールで無理やり語ろうとすれば、対象が持つ本来の輝きや深みを失わせてしまう。
だからこそ、大切なものに対しては沈黙を守り、態度や実践で示すべきだという、深い「畏敬の念」なのだ。

素晴らしい映画を観た後や、息を呑むような夕焼けに出会ったとき、安易に「感動した」と口にするのをためらう感覚。
それは、言葉にした瞬間に自分だけの固有の震えが「よくある感動」という箱に押し込められ、陳腐化してしまうことを、私たちが本能的に知っているからかもしれない。

AIが教えてくれた「意図」の大切さ

とはいえ、仕事の現場で「畏敬の念があるから沈黙する」とは言えない。
プロジェクトを進めるには、どうしても言葉が必要だ。
では、対象を殺さずに言葉を扱うには、どうすればいいのか。

そのヒントは、意外にも最新のAI技術に見つけることができる。

少し前まで、AIへの指示(プロンプト)は、曖昧さを排除して完璧に定義することが正解だとされていた。
「文字数は○○文字、文体は○○、禁止事項は○○」と事細かに命令する、いわゆる「プロンプトエンジニアリング」の初期段階だ。

しかし、大規模言語モデル(LLM)の進化に伴い、潮目が変わってきた。

ガチガチに命令するよりも、「私はこういう背景で、こんなことを実現したいと思っている」という「意図」や「文脈」を伝えた方が、AIが想像を超えた精度の高い回答を返してくることがわかってきたのだ。

AIに対してさえ、単なる作業命令ではなく「思考の補助線」となるような「意図の共有」が重要になってきている。

これは対人間ならなおさらだ。
言葉を相手をコントロールするための「定義」として使うのではなく、向かうべき方角を示す「意図」として使う。
「意図」さえ共有できていれば、具体的な手段の部分には「余白」が生まれる。

その余白こそが、メンバーの創造性を引き出し、プロジェクトに命を吹き込むスペースになる。

名前を変え続けることで、意図を繋ぐ

言葉を「意図の共有」として使うなら、プロジェクト名やルールといった「定義」は絶対的なものではなくなる。
むしろ、状況が変わっているのに言葉だけが変わらない方が不健全だ。
意図という芯さえ通っていれば、言葉は状況に合わせていくらでも着替えていい。

以前携わった、埼玉県北本市の「北本らしい“顔”の駅前つくりプロジェクト」でのこと。
駅前の広場整備において、私たちは設計を進める『つくる会議』だけでなく、実際にどう広場を使いこなすかを議論する『つかう会議』という場を立ち上げ、両輪でプロジェクトを進めた。

面白いのは、このソフト側の会議体が、状況に合わせて出世魚のように名前を変えていったことだ。

最初は広場の活用を考える『つかう会議』としてスタートした。
具体的な運用が見えてくると『広場を育てる会議』へ。
街全体の活性化へと視座が広がると『まちのリズムを育てる会議』へ。
そして運営のバトンが観光協会へと渡った後は、『北本の観光のこと考えちゃわナイト』という、誰でも参加しやすい名前へ。

「自分たちの街を、自分たちで楽しくする」という根底の想いは変わらない。
しかし、フェーズが変われば、その場が持つ役割も変わる。

だからこそ、私たちは名前を更新することで「今、この場にはこういう意図がある」と示し続け、参加者と常に目線を合わせることを意図し続けたのだ。

「定義」するのではなく、「意図」を共有する

私たちは「言語化」を、言葉で「定義」することだと思い込んでいる。
範囲を確定させ、動かなくするものとして。
一度決めたら、もう動かせない。間違ってはいけない。
そんなプレッシャーが、思考の足を止め、沈黙を生んでしまう。

でも、変化の激しい時代に必要なのは、定義ではなく「意図」の共有だ。

定義は「ここから出るな」と縛る鎖だが、意図は「あっちに向かおう」と指差すコンパスだ。

意図さえ共有できていれば、言葉はその時々で書き換えていけばいい。
「現時点ではこう呼ぼう」「意図は変わらないけど、表現は変えていこう」

そうやって言葉を仮置きし、更新し続けること。
それこそが、変化の激しい時代における「編集」という行為の本質だ。

私はこのプロセスを、NED(Narrative・Edit・Design)という思考の補助線を使って整理している。

根底に流れる変えられない想いや文脈が「Narrative(物語)」
それをその時々の状況に合わせて言葉や定義として切り出すのが
「Edit(編集)」
そして、そこから具体的な形や場としてアウトプットするのが
「Design(実践)」だ。

多くの人は、Edit(言葉)やDesign(形)を一度決めたら動かない「決定事項」として扱おうとする。
しかし、Narrativeが生きて動いている以上、EditもDesignも、状況に合わせて柔軟に形を変えていくのが自然な姿なのだ。

ベストな「仮置き」を探し続ける

ウィトゲンシュタインが示したように、本当に大切なこと(語り得ぬもの)への畏敬は忘れてはいけない。
安易な言語化で、感情や美しさを殺してはいけない。
けれど、前に進むためには言葉が必要だ。

だから私たちは、「定義」ではなく「意図(Narrative)」を指し示す言葉を選ぶ。
そして、その言葉が古くなったら、また新しい言葉に「編集(Edit)」し直せばいい。
「言語化オジサン」になりそうな時は、自分にそう言い聞かせるようにしている。

完璧な言語化なんてなくていい。
私たちはただ、その時々のベストな「仮置き」を探し続けるだけでいい。

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